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今夜の番組チェック

ベルリンの壁の話 その1
ベルリンの壁が崩壊したのは1989年11月9日のことだが、この壁がどのような物で
あったのか、どのような原因で作られたのか、そしてどのような形で崩壊したのかを説明
する必要があるだろう。1983年に両親と叔母が東ドイツに住んでいた私を訪ねて来た
時、ベルリンの壁博物館に行き、西ベルリンはどういう状況に置かれているかを説明した
のだが、母には分かってかもらえなかったし、東ドイツ人がちっとやそっとで西側諸国に
出れないということは、この3人は理解できなかったようである。そういうわけで、東西
ドイツが建国された経緯から始めるのがいいのではないかと思う。
1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まったのだが、
それと同時にソ連軍がポーランド東側に侵攻し、あっという間にポーランドは両国の占領
下に置かれてしまった。このポーランド東部のソ連占領下に置かれた部分はそのままソ連
領になり、ここに住んでいたポーランド人は、戦後ポーランドに割譲されてしまったドイ
ツ領、シュレジア地方などに移住したそうである。早い話が、ポーランドの領地は東にず
れてしまったということである。そしてドイツ領であった東プロイセンはソ連に割譲され
てしまった。
戦後には、オーストリアと東ドイツの部分がソ連、西ドイツの部分はアメリカ、イギリス、
フランスの管理下に置かれたのだが、ベルリンもベルリン協定により、この4カ国の管理
下に置かれた。東ベルリンの部分をソ連が、西ベルリンの部分をアメリカ、イギリス、フ
ランスが管理することになったわけである。それまでには東西ドイツでは同じ通貨が使用
されていたのだが、1948年6月20日には西ドイツと西ベルリンで通貨改革が行われ、
西のD-マルクが導入され、一人当たり40D-マルクだけが支給された。すぐに続いて東
側でも行われたが、デノミで、それまでの10マルクが1東マルクと制定された。それと
同時にソ連は6月24日に、西ドイツから西ベルリンに通じる陸上の交通を全て封鎖し、
200万人の西ベルリン市民を兵糧攻めにした。これに対抗し、アメリカはクレイ将軍の
下に、西ドイツから輸送機を使って生活物資を空輸させ、それが49年の5月12日まで
続いたのである。これをベルリンの空の架け橋と呼んでいるが、ベルリンのテンペルホー
フ空港には、昼夜を分かたず90秒おきに飛行機が着陸し、述べ約27万回に及んだとい
うことである。ここの空港とフランクフルト空港にはその記念碑が立っている。輸送機の
パイロットたちは着陸する前に、ハンカチで作ったパラシュートにチョコレートなどをく
くりつけてベルリンの子供たちのために落としてあげるというアイデアを考案し、子供た
ちに非常に喜ばれ、子供たちはわれ先にパラシュートに飛びついたということである。
一応、この時代も東ドイツ人は西ベルリンに出ることができたのだが、常に東側で持ち物
を検査されたそうである。
1949年には西ドイツ連邦共和国、いわゆる西ドイツが、その直後にドイツ民主共和国、
東ドイツが建国され、東ベルリンがその首都と宣言された。この後、西ドイツと東ドイツ
の国境には柵などが1378キロにわたって張られ、通行はかなり難しくなったのだが、
西ベルリンだけは、ベルリン協定によって境界線はあったものの、通行は自由に行われて
いた。その後西ドイツ、西ベルリンは戦後マーシャルプランによって復興が急ピッチで進
められ、コーヒー、ピーナツバター、チョコレート、脱脂粉乳などが入った1100万個
の援助物資がアメリカから届けられたりと、将来への生活の展望がかなり見えてきた。そ
れに比べ、東側ではソ連が戦後賠償として、ドイツからかなりの物を撤収して本国に送り
込んだ。たとえば、色々な工場などの設備、プラント、複線の鉄道は片方の線路を取り外
して運んだ。水道の蛇口まで持って行ったとも聞いている。無理もないだろう。散々ひど
い目にあったのだから。それに比べ、アメリカは本国はほとんど攻撃されることはなかっ
た。西ドイツはゼロから出発したのならば、東ドイツはマイナスから出発したと言えるだ
ろう。
東ドイツはソ連の指導のもとに(東ドイツはよくこういう呼び方をした)、共産主義的シ
ステムを取り入れ、農場の国有化(早い話が地主からの没収)、資本家から工場などを没
収して国営化を進め、労働者たちはそのシステムに沿った労働を課せられた。一番の例が
ノルマと称されるものである。ところが、1953年6月17日、東ドイツ政府が給料を
値上げすることなく、10パーセントのノルマを追加するという通達に対して、スターリ
ンアレーの建設労働者たちがこれを拒否、このノルマの撤回、消費財の値下げ、自由選挙
などを要求してしてストライキを起こし、それが瞬く間に東ベルリンはもとより、全国的
に広がった。このデモは比較的平穏に行われたのだが、東ドイツ政府は、これに対して弱
みを見せてはならないとばかり強烈に反発し、ソ連軍の出動を要請した。デモ隊は戦車に
投石したり、戦車の無限軌道に石や鉄棒を挟んで抵抗したが、戦車と石では勝負にはなら
なず鎮圧されてしまった。西ベルリンに駐屯する連合軍は、これに手出しをしなかった。
冷たい戦争の最中であり、これが熱い戦争に発展するのを恐れたのである。この暴動で約
50人が死亡したと聞いているが、東ドイツ政府はこの暴動を、帝国主義的な西側陣営の
煽動家たちによって挑発されたものであると宣言し、その主犯であるとされた者たちを国
家反逆罪、反共産主義的な煽動などのかどで死刑にした。その後西ドイツはこの6月17
日を「ドイツ統一の日」という祝日に制定した。こうして東西ドイツはソ連とアメリカの
巨大国に分断され、全く違った道を歩み続けることになったのだが、西ベルリンは言うな
れば、東ドイツの中にある飛び地のようなものであった(一応まだ出入りはできたので、
孤島ではなく、飛び地と呼んだほうがいいだろう)。